鹿児島大学リポジトリ コンテンツ9000件目記念インタビュー企画

鹿児島大学リポジトリの公開コンテンツ数がこのほど9000件を突破しました!

 9000件目は下記の論文でした:
 長谷川茂夫「メフィストとヨブ」(鹿児島大学文科報告 第3分冊 独語・独文学・仏語・仏文学・中国語篇 29号, p61-69, 1994)
 記念に著者の長谷川茂夫先生(法文学部)にインタビューを行いました。
   
   

始めに、先生が研究されてきたことについて教えて頂けますか? 

長谷川先生: 現在の所属は法文学部・経済学科ですが、元は旧・教養部です。ゲーテ(1749~1832)、特に『ファウスト』を中心に研究してきました。ゲーテがその一生をかけて完成させた作品『ファウスト』は、ご存知のように古今東西の人々の関心を引き付けてきました。日本では手塚治虫が生涯3度にわたって漫画化しています(なお若い頃の作品『ファウスト』と、晩年の作品『ネオ・ファウスト』とでは画風も異なっています)。

 ゲーテの創作の背景の一つに、彼が文学のみならず自然科学にも興味を持っていたことがあります、これは世界を自分の感覚で直観的に理解したいという時代の精神に通ずるものです。ドイツのルネサンス(イタリアのそれより1~2世紀ほど遅いのですが)における伝説上の人物が錬金術師ファウストなのです。ゲーテの生きた時代はドイツにおける産業革命が起こった時代で、機械を用いて人間がその持っている能力を最大限に引き出そう、自己実現をしよう、としました。ファウストは諸学を究めるものの充実を得られず、世界を直観的に捉えたいと悪魔と契約を交わし、「知識」から「行為」の世界へと踏み出します。

 ゲーテの創作のもう一つの背景に、世界が不完全である、という意識があると考えています。彼が子どもの頃リスボンの大地震で多くの人々が亡くなったのですが、この経験から、神が作った完全なはずの世界になぜ悪が栄え罪なき人々が苦しむのか、という疑問を彼は持っていました。『ファウスト』「天上の序曲」では、神と悪魔が、ファウストの魂を悪の道へと引きずり込めるかどうかの賭けを行うのですが、この構成は『旧約聖書』の「ヨブ記」を下敷きとしています。「ヨブ記」では、神と悪魔が、善人ヨブが苦難を受けて神を呪うかどうかの賭けを行い、なぜこのような苦難を受けるのかとヨブから問われた神は、自分は絶対的に正しい、とだけ答えます。ファウストは人生の快楽を尽くし非道なことも行うのですが(これらの様々なエピソードはゲーテ以前のファウスト伝説から題材を得ています)、やがて、自分の理想とする「自由の土地」で、毎日苦労を惜しまず働き力を尽くして生きる、そんな自由の心を持った民が、永遠に暮らす、そのような理想の瞬間に自分は初めて満足しこう言うだろう、と、悪魔に魂を渡す約束の言葉「瞬間よ止まれ、お前は美しい」を口にし、絶命します。契約通り、死んだファウストの魂を貰い受けるべく、悪魔は魂が出てくるのを待ち構えるわけですが、ここで、ゲーテ以前の伝説ではファウストは地獄に行き物語が終わるのに対して、ゲーテにおいては天使が天上から現れ魂をさらっていき、ファウストは天国へ行くのです。さらにその天国で、かつての恋人がファウストのために(神ではなく)栄光の聖母に祈りをささげることにより魂が救済され、「永遠にして女性的なものが、私たちを上に連れて行く」という結びで物語が終わります。

 私は、ゲーテが神と考えていたものは大自然の持つ生命力・生産性ではないかと解釈しています。自分の力の限り「行為」に邁進し悪行も尽くしたファウストがなぜ救済されるのか、作品が発表された当時も大変議論を呼びましたが、おそらくゲーテは、近代的な精神―自分の持つ力を極限まで推し進め、最期まで成長しようとする精神―は、たとえファウストのように破滅するほど極端であろうとも、救済されなければならないと考えていたのではないでしょうか。それを男性的なものとすれば、対してそれを救済し高みへと導くのが女性的な生命力・生産性―大自然の持つ生命力・生産性に繋がるものですが―であり、この両者を取り持つものがエロス―キリスト教的な愛ではなく男女間の愛―である、と解釈できるのではないかと考えています。ゲーテは現代の根本的な問題をすでに考えていたと捉えられ、ゆえに現代でも多くの人の興味を引き付けているのではないかと思います。そして、契約を守り何の落ち度もないのだからファウストの魂を得られたはずの悪魔が、神の絶対性のために魂を奪われてしまったのは、先に述べた「ヨブ記」の裏返しであり、アイロニーであると思います。

ご論文「『西東詩集』のオリエント」における模倣に関する論考も興味深いです。 

長谷川先生: 学ぶということはそもそも真似をするということですが、形式や見かけのみを真似て内容がなければ、それは単なる猿真似であり模倣ですらありません。自らも積み重ねてきて豊かな内容を持ち、手本とする相手と同等にまで達していてこそ、自分の表現に適する形式として先人の作品を用いることができるのであって、この模倣は換骨奪胎とも言えるかもしれません。さらに言えば、材料として意のままに使えるには、同等に達するよりむしろ相手を超えていないとできないと思います。

現在鹿児島大学言語文化研究会が発行している定期刊行物『VERBA』の初号から先生は関わっていらっしゃいますが、この刊行物について少しお話頂けますか? 

長谷川先生: 荒川譲先生*1を中心として教養部のドイツ語・フランス語研究室の先生方により1975年に立ち上げられたものです。私と同僚の先生とで『VERBA』と名付けたんですよ、ラテン語 VERBA は、英語で言うと words にあたる言葉です。創刊時にはタイトルロゴも手書きしました。教養部の外国語担当の先生方による第2紀要のような位置づけでしたが、1997年の教養部解体で各教員が法文学部や教育学部へと移った後も雑誌は刊行を続けることとなり、現在に至っています。

『VERBA』創刊が1975年ですが、その頃と現在とでは研究環境もかなり変わったのでしょうね。 

長谷川先生: 大いに変わりました。当初は論文を書くのも手書きでしたからね、それから、ワープロ、タイプライター、コンピュータとどんどん便利になってきました。洋書の入手も昔は困難で、新刊を注文し数年経ってから絶版になったとの連絡が来たこともあったものです。現在は他機関からの借用も容易になり、本の入手も大変便利になりましたし、いつでもどこからでも論文にアクセスできるリポジトリも大変重宝しています。電子書籍も使っていますが、全文検索できるのでひとつのキーワードが作品のどこに出てくるか、といったことも即座に分かり、大変便利です。研究のスピードも随分上がりました。もっと多くの本が電子書籍になって欲しいです。

最後に、学生さんへ送る言葉をお願いします。 

長谷川先生: 論語に「子曰、学而不思則罔、思而不学則殆(子曰わく、学びて思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し)」とあります*2。学んでも自分の頭で考えなければ身につかないし、自分の頭で考えても先人に学ばなければ危険である、という意味で、自分でも注意していることです。



*1 荒川先生は附属図書館長も務められました(1993年4月~1997年3月)。
*2 為政第二


インタビューを終えて(担当者から) 

 この3月で退職される長谷川先生。特に思い入れのある論文は、「『ファウスト』第二部に於ける行為の救済」だそうです。多岐にわたるお話をありがとうございました。

 ※この記事は2013年3月25日(月)に行ったインタビューを元に構成しました。