@article{oai:ir.kagoshima-u.ac.jp:00006384, author = {日隈, 正守}, journal = {鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編, Bulletin of the Faculty of Education, Kagoshima University. Cultural and social science}, month = {2016-10-28}, note = {本稿では,八幡新田宮と密接な関係を形成した五大院の起源と本来的な性格について考察した。その結果五大院は,11世紀前期頃護国祈願や調伏等を行う天台系寺院として成立し薩摩国衙の庇護を受けたと考えられる事,11世紀後期に阿多郡が日宋交易の拠点の1つとなると,天台系観音寺との関係や薩摩国衙の承認の結果,阿多郡内(阿多北方)に多くの所領を獲得したと考えられる事,12世紀前期に宇佐弥勒寺領化し,実質的に石清水八幡宮の支配下に入った事,治承・寿永の内乱時に薩摩国衙を掌握していた平氏方に味方したので,内乱後五大院と八幡新田宮は島津忠久の管理下に置かれた事,惟宗康友が五大院院主職・八幡新田宮執印職に補任された後,阿多北方の五大院領・八幡新田宮領は八幡新田宮領政所が,阿多北方以外の五大院領・八幡新田宮領は八幡新田官公文所の支配下に入り,五大院領にも八幡新田宮側の支配が強く及んできた事,阿多北方では五大院領と八幡新田宮領とが鎌倉中期に,それ以外の地域では鎌倉後期迄に一体化し,鎌倉後期には五大院と八幡新田宮とが一体化していた事等を明らかにした。}, pages = {17--31}, title = {五大院考}, volume = {57}, year = {} }